人は対話を必要とする

パヴィアク
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人は対話を必要とする。ドラッカーの言いたいことをあえて一言で言えばそういうことになる。

人間とは永遠に孤独な個であるとともに、社会的関係のなかで生きざるをえない。そこには窮極的に、絶対的に矛盾するもの同士を関係付け、融和させうる遠心力がなくてはならない。

私が対話というのはこの遠心力を提供する装置のことである。本質的に矛盾するのだから、求心力である必要はない。求心力を求めると、人や社会は確実にその生命力を減退させる。求心力とはそれが明確であればあるほどに、人や社会の不条理を増大させざるをえない。

他方遠心力とは力を分散させつつ収斂させる一種独特の作用である。ちょうど水の入ったバケツを持ち一定以上の速度で腕を回しても、なかの水が床を濡らさないのに似ている。それはものごとが運動するときに現れる一つの力学であって、ドラッカーによる一連の発言も、その対象領域がいかなるものであれ、ダイナミズムのなかにのみ現れる対話形態を取り扱うのである。

その意味でドラッカーの発言は、いずれも人や社会の遠心力、対話を意識したものとなっている。マネジメントとは人間と社会のための対話装置である。イノベーションとは現在と未来の対話装置であって、マーケティングとは組織内部と外部との対話装置である。

いずれにしても、この世を生きる大半の人々にとっての対話装置とは、仕事である。仕事とはむろん経済的価値を手にし、生計を維持する手段として機能する。しかし、それ以上に、永遠に孤独な個を社会の一員とし、ともに機能させうる装置としての役割のほうにドラッカーは目を向けた。彼のいう位置付けと役割とはつまるところそのようなことをさす。

対話とは単なる二つの存在を媒介する装置であるにとどまらない。単に二つの存在をつなぎあわせるのみの存在ではない。

対話とは触媒でもある。触媒とは、二つの存在が互いに刺激し合い、その過程を経た後に双方はそれ以前と異なる存在となる。われわれはある人を知った前と後とでは別人となる。

江戸末期、鎖国を国策とした当時の人々にとって、黒船の蒸気船に象徴される近代西洋の姿を目にした前と後とで、彼らの思考構造は根底から変化を余儀なくされた。いわば別人になってしまう。私が触媒という語でいいたいのはそのようなことである。

マネジメントも実はそのような含意を多分にはらむ概念として捉えなければならない。ドラッカーはマネジメントを思想や哲学の範疇で捉えられることを好まなかった。しかし彼はそれを「信念の具現」と表現した。マネジメントが信念の具現であるならば、それはまさしく個と社会、理想と現実を架橋し、相互の対話を生み出すことで触発し合う関係を想定することができる。

やや話は飛躍するのだが、私はドラッカーを読むとき、その詩人のような言葉のみずみずしさに打たれることがある。彼の凛動するような言葉の数々は、見えざるものに命を与える詩人の営みのように感じられる。

そんなとき、私は日本の詩人・萩原朔太郎の次のような章句を思い浮かべる。

「人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。/とはいへ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。/我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人みんな異つて居る。けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通を人間同士の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』が生れるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない」(『月に吠える』序)

まさに、絶対的に異なる者同士に道徳という秩序や、愛という共通感情を可能とする、これこそが古来人類が死に物狂いで追い求めたものであった。人間に宗教や倫理・哲学が必要なのも、人間が孤独でありながら共同性なくして生きられない本質的要請にもとづくものであったと私は思う。

ドラッカーの言葉には、その一見乾いたさりげなさのなかに、常に流露してやまない一貫した思想がある。それは、相異なりつつも矛盾し合う二つの主体に交流と刺激をもたらす対話の論理である。理想と現実についても同様である。理想とは荒唐無稽といわれようが非現実的といわれようが、はてしなく深遠かつ高邁でいっこうにかまわない。それは仰ぎ見られるものであって、遠心力として機能すれば事足りる。そこに向かって着実に現実を保守・変革できればよい。