現代人はドラッカーに何を求めているのか
いわゆるブームに強烈なターボがかかったのは二〇〇〇年以降のこととしてよい。一昔前はビジネス書の古典として四〇歳以上の管理職や経営者の間でその名はつとに知られていた。だが、十数年前から若手のビジネスマンや就職活動中の学生にまで裾野を広げ、近年に至っては高校生や主婦にまでその名を知らぬものはないところまできた。
先鞭をつけたのは二〇〇〇年に出版された上田惇生編訳の『プロフェッショナルの条件』だった。今なお広く読まれており、刊行から一〇年を経た今日さえベストセラーランキングの上位に顔を出すこともある。最初に手にとるものとしてはまず手頃としてよいであろう。
その翌年、同じく上田惇生編訳の『[エッセンシャル版]マネジメント』がさらなる後押しをした。ドラッカーを形容するもっともポピュラーな言い回しの一つに「マネジメントの父」というものがある。とくに戦後の企業のマネジメントについて多大な功績があったとされ、戦後高度成長のプロモーター役を果たしたソニーやオムロン、イトーヨーカ堂、ダイエー、トヨタといった企業群像が広くドラッカーの影響を受けたとされるのはよく知られた事実の一つだ。
『[エッセンシャル版]マネジメント』はマネジメントの考え方をコンパクトに読みやすくまとめたものとして、新たな読者の創造に大きく貢献した。
マネジメントの最初の体系的書物としては一九五四年『現代の経営』がある。その後ドラッカーはさらなる実地見聞と思索を経て一九七三年に『マネジメント』なる大著を公刊し、名実ともに泰斗の座を占めた。だが原書で八〇〇ページ、翻訳では一〇〇〇ページを超えるものであったために、一般ビジネスマンにはともすれば敬遠されがちなところがあったのも否定できない。
それをごく手頃なページ数で、しかもエッセンスのみを抽出したのがエッセンシャル版最大の功績だった。やや敷居の高い印象のあったドラッカーがぐんと身近になった。
極めつけといってよいのが二〇〇九年の岩崎夏海による小説『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』、通称『もしドラ』である。ふつうの女子高生が高校の弱小野球部を、ドラッカーの『マネジメント』の考え方を応用して甲子園につれていくストーリーで、発売から現在まで二五〇万部を超える出版史上まれなベストセラーとなった。漫画化、アニメ化もされ、AKB四八の主題歌による映画化もされた。
『もしドラ』の出現がそれまでどんなに広くともビジネスという垣根を超えられずにいたドラッカーの名を一気に一般名詞にまで広げた。今までもたびたび起こっていたブームをスケール的に遙かに凌駕する形でドラッカーが受け入れられるようになった。
今もなおドラッカーを学びたいという人は後を絶たない。二〇〇五年には世界に先駆けてドラッカー学会が日本で設立され、現在では会員八〇〇名を擁するまでになっている。『もしドラ』の成功も手伝って、ドラッカーが本来持つ潜在力が全世界に共有される前夜にあるものと見てよいだろう。社内やNPOの勉強会でドラッカーが取り上げられることも多い。近年では大学や高校などでもドラッカーが教えられる例が出ている。
日本ばかりではない。アメリカにはドラッカーが教鞭をとったカリフォルニア州クレアモントにドラッカー・インスティテュートなる組織があり、ネットワーク活動が世界的に進められている。アジアでは中国、韓国などにドラッカーを研究する組織があり、とくに中国にはドラッカー・アカデミーなる高等教育機関で年間数千の学生がドラッカーを学んでいるという。
近年ヨーロッパでもドラッカーを新しいタイプの思想家として評価する動きが出ている。
では、なぜドラッカーはここまでの世界的なポピュラリティを獲得しえたのか。実はここに「マネジメントの父」とともに、一見趣を異にするもう一人の思想家としての姿が浮かび上がってくる。
急速に注目を集めるようになっているのは思想家としてのドラッカーである。いわば「もう一人のドラッカー」である。ごく近年ドラッカーを冠する形容として、「二〇世紀に身を置きながら二一世紀を支配する思想家」というものがある。いわば時代の原理転換を鋭敏な感性と洞察で見抜いた知的先駆者としての姿、「もう一人のドラッカー」である。
あるいはドラッカーの訳者・編集者、研究者として著名な上田惇生は「ポストモダンの思想家」とも言う。ポストモダンとは少々耳慣れない語彙だが、世界を綿密な因果の連鎖ととらえる近代科学主義、近代合理主義への一つの対抗原理を意識的に提示しえた思想家といった意味合いがある。
その証拠に、ドラッカーといえば二〇世紀にあって合理では割り切ることのできぬいくつかの歴史的事件を「予見」したことでも知られる。たとえば、一九三九年の『経済人の終わり』では独ソ不可侵条約とユダヤ人の大量殺戮を不可避としている。
同じころ日本では独ソの接近というドラッカーの予見した事件を目のあたりにして「欧州の天地は複雑怪奇」の遁辞を弄して米内光政内閣が総辞職している。ドラッカーにとっての「理の必然」が、必ずしも世界の常識でなかった典型であった。
ほかにも戦後日本の高度成長を予見したことからも、とりわけ日本でその勇名を馳せるようになった。さらに、一九八九年の『新しい現実』ではソ連崩壊をみごとに言い当てている。そんな的中率から世人はドラッカーを卓越した「未来学者」などとしてさかんに持ち上げたりもしたが、本人は未来学などにいっさい信をおくことなく、「私が未来学者でないことだけは確かである」と恬淡たるものがあった。
ちなみに、彼が嫌ったもう一つのラベルは「経済学者」で、うっかりでもそのように呼ばれると露骨に不快感を表したという。
今そんなドラッカーを学ぶのには少なからぬ意味がある。とくに二一世紀に入って、私たちの生きる世界が、ドラッカーが二〇世紀に発した言説空間と高度な次元でリンクするようになっている。周囲を見回せば、世界はドラッカーの語彙に満ちている。あたかも知のマスター・キーのようにドラッカーによるコンセプトが世界の成り立ちを解き明かしてくれる。
以降、ビジネスの語彙にとらわれることなく、ドラッカーの世界全般をお話ししていきたいと思う。
彼は何者だったのか?
ドラッカーとは古くはオランダ由来の名である。ドイツ語圏では印刷職人を意味する。英語でいうならば、プリンターである。家や職場にある簡易出力機のプリンター、あれもドイツ語圏ではドラッカーと呼ぶ。
今ならたいていのところに「ドラッカー」があり、誰もがほぼ毎日それを使っていることになる。
マネジメントの父たるドラッカー、正確にはピーター・フェルディナンド・ドラッカーの名は、経営学や社会学の一部でその名が言及されるとともに、すでに時代を代表する知性としての認知を受けている。では、そのドラッカーとは何者だったか。どんな特徴を持つ論者だったのか。まずはその点を入り口にしよう。
ドラッカーは一九〇九年にオーストリアのウィーンに生を受け、二〇〇五年にアメリカのカリフォルニアで生を閉じた。九五歳だった。
その生涯は、名の原意たる印刷の歴史的役割を彷彿とさせるものがある。先祖由来のものなのか知るよしもないが、彼は印刷者の占める歴史的・文明的役割にいついかなるときでも大いなる敬意を抱き続けたことは確かである。というのも、ドラッカーは「見る人」だった。そして「書く人」だった。おおざっぱにいえば、観察と記述、彼が人生で行ったのはこの二つだけだったとしてさしつかえない。
結果として、古典的な表現を使えば、「洛陽の紙価を高からしむ」世界的な言論リーダーの一人であり続けた。
『もしドラ』の著者・岩崎夏海氏は、ドラッカーをセルバンテスやマーク・トウェインなど世界的な文学者に連なるものという。ドラッカーはあたかも、他者の心に入っていってそこに移りゆく風景を直接見る能力を有していたかのようだった。その目は、まるで超微視的なものから、超巨視的なものまでをもとらえうる光学レンズだった。
そのレンズで彼は人間社会のまさに内面で移りゆくものごとを繊細の精神とともにとらえ、干満のリズムをも感得することができた。そして、人や社会の外側に聳える無数の壁をくぐり、内側で進行する本質的プロセスを観察し、それを特有の美的感性を持って記していった。
その成果はつど「印刷」され、書物として世界中に頒布された。
存命中三九冊の著書を刊行し、うち三分の二が六五歳以降の作品だった事実ほどその知性が瞑目のそのときまで活発だった証左となりうるものはない。実際に世界全体で見れば発行部数は軽く数千万のオーダーに上るだろう。
歴史上の一流の革命家に共通することは、新しい政治体制をつくることでも、大戦争に勝利することでもない。未来の建設に真の意味で資するベストセラーを書くことである。その意味でいうならば、ドラッカーは確実に一流の革命家であり続けた。
では最初の問いに戻ろう。彼は何者なのか。「ケインズとは何者か」とか「アインシュタインとは何者か」というと、問いそのものに違和感があるに違いない。ケインズは経済学者に決まっているし、アインシュタインは物理学者に決まっている。
しかし、不思議なことに、「ドラッカーとは何者か」といってもさほど違和感がないばかりか、妙に収まりのいいところがある。「何者か」とはある種ドラッカー特有の得体の知れなさを表現して余るもののようにさえ思える。
むろん彼の活動領域のはてしなく広いことも一役買っているだろう。しかしそれ以上に、世界への影響力がきわめて巨大なものであるにもかかわらず、生涯をほぼ無冠で過ごしたことが大きいように思う。じつに彼は二〇世紀に身を置きながら二一世紀の手法で現実を見続けたのであって、当時においてふさわしいファースト・ラベルがないのが特徴だった。
そんな彼のお気に入りの自己規定が「社会生態学者」だったのは比較的よく知られている。もちろん社会生態学などという学問は今なお未成立である。だから、この学問の発展の帰趨はいまだ未来にあるということになる。その未完の可能性こそがドラッカーを冠しうる一つのラベルとなる可能性がある。
ドラッカーという人物には常に一筋縄ではいかぬところがある。というのも、彼は経営学者ではあるが、経営を主軸とする社会科学者ではない。むしろ主軸を探索すれば政治学者に近い。他方で時代状況を観察しつつなされる発言の一つひとつを見るならば、警世家、あるいは時代診断家と呼ぶにふさわしいものがある。
では、何を見て書いたのか。対象はわれわれの眼前に広がる広大無辺の世界そのものだった。
だが、そこには「ドラッカー的思考」ともいうべき、作法あるいはスタイルがあった。たとえばジャーナリストという仕事は「見て、書く」を主たる活動とする点において、社会生態学を具現化するものの一つである。
ジャーナルの原意は「日々を記す」ことにあり、日々移ろいゆく時間意識をありのままに記録することにある。同時に、その営みは単に事象を記録するのみならず、歴史を創造するというダイナミックなプロセスそのものでもある。
観察・記述の対象範囲は、個であってもよいし世界そのものであってもよい。ルソーの『孤独な散歩者の夢想』や魯迅の『狂人日記』のように、病的なまでに内面の心の動きや自意識にこだわってもよいし、その観察の眼を歴史全般に拡張して、司馬遷やヴェルギリウスのような壮大な叙事詩を綴ってもよい。
対象自身にはいかなる差別もない。いかなるものでも、世界の一部をなすという厳粛な事実に変わりはない。その場合、世界を見つめ、自らの言葉で記述する者は歴史を記録するのみではない。同時に歴史を創造する者でもある。
事実、ドラッカーはフランクフルトに在住した一九三〇年前後、現地の小新聞で記者職に従事していた。同じころ、彼はフランクフルト大学に籍を置き国際法を学ぶ傍ら、あまり明確に書いてはいないながらも、保守系の政党設立に関与していたともいわれる。
当時彼は、観察し、書き、学び、教え、そして歴史を創造するという複数の重要な役回りを担っていたことになる。さらにドラッカー本人も、自ら「歴史を書く者」との自意識は強く持っていたようで、そのほうがマネジメントよりもはるかに自らの本質に近いと考えていたふしがある。
多くの場合、ジャーナリストは学問の世界で評価されるのが難しい。彼らの主たる関心が理論よりも現実である以上やむをえないところである。ドラッカー自身の活動が分類不能なのも、そのあたりに端を発しているのかもしれない。
なぜ彼は鉱脈に達しえたのか
ドラッカーという思想家は不思議なところがあって、その人物像と業績が一体にしか論じえないところがある。その証拠にドラッカーとマネジメントはほぼイコールかのように巷間言われるものの、その実、全業績のなかで、マネジメントは鉱脈の一部をなすものに過ぎない。
実際のところ、彼は企業のマネジメントそれ自体に言われるほどの関心を持っていたわけではなかったし、自らをマネジメント学者とは考えていなかったふしさえある。あくまでもマネジメント研究に進んだのはやむにやまれずのものであって、本来彼の関心の中心にあったのは人と社会だった。
第一次世界大戦から第二次世界大戦に至る文明社会の危機を目にして、彼は人と社会に秩序をもたらす鍵となるものの探索に乗り出す。そこから結果として組織というコンセプトに到達する。簡単に言えば、組織をどう運用するかが人や社会の幸不幸を決める、そんな社会になったのだと気づく。そこで組織をいかに運用すればよいか、そのための方法論をマネジメントと呼ぶことにしたのだった。
その意味では、マネジメントを論じた最初の人がドラッカーだったのはある面偶然であって、彼は「もし自分がやらなかったら別の誰かがやっただろう」と平然と言っている。マネジメントを深く理解しようとするとき、ドラッカー自身の人と社会への視座、それともう一つ、彼の修業時代との連続性において見ていくといっそう鮮やかに、かつ立体的なものとなるはずである。少しその観点からお話しすることにしたい。
もちろん、ドラッカーの前にマネジメントがなかったかというとそうではない。たとえば、彼が例に引くのはエジプトのピラミッドである。気の遠くなるほどに精巧かつ複雑な構造物たるピラミッド――、その製作にはマネジメントなくしてありえないと彼は言う。一昔前、本などで見るピラミッド造成の挿し絵などでは、強面の役人が鞭をふるって奴隷を使役し巨石を運搬させる苛酷な場面として描かれたものだった。
しかし現実を考えるとそんなことはありえない。当人たちの意志に反して何かを強いてものごとをなしとげしるのには自ずと限界がある。
日本にあっても同じである。古墳や寺社など、幾星霜を経ても残りうる質を持つものが単なる強制動員でできると考えるのは明らかに無理がある。小規模なものならいざ知らず、巨大で永続的なものは不可能である。
マネジメントなくしてはありえない。偉業の影にはマネジメントがあった。
マネジメントとはあえて言えば強みのかけあわせであって、しかも意識して成果に結び付けるための方法である。特性の異なるものを効果的に組み合わせて、数乗倍の成果を上げる方法である。
たとえばAKB48を一人ひとりに分解して足し合わせても意味がない。全体として一つの価値を生むのは個々の努力とは別ものなのだ。オーケストラもスポーツ・チームも同じである。
いずれもうまくいく組織は全体が部分の集合以上のものであることを教えている。
ドラッカーは時代の中心に組織のマネジメントがあるのを見抜いた。まずその点が第一に挙げるべき彼の業績としてよいと思う。事実、彼は自らの本業を「見る」ことに置いていた。自分は見る人であって、ゲーテ『ファウスト』の物見リュンケウスだと述べている。ちなみにリュンケウスは、物見台にいながらにして遠く離れた家の中、さらに引き出しの中まで見てしまう「視覚の天才」として登場する。
ドラッカーはそのリュンケウスに自らをなぞらえたわけだから自信のほどが窺えようというものである。
ところで、「見る」というと誰でもしているありきたりの行為と思われる向きもあるだろう。しかしそうではない。「見る」とはれっきとした「仕事」である。
シャーロック・ホームズを愛読したことのある人なら、そのことがよくわかるはずだ。ある作品で、ホームズは助手のワトソンに「探偵に不可欠な素養が一つだけある。変装を見破ることだ」という場面がある。
変装を見破る――。見ることがプロの仕事であることを象徴的に物語っている。見えるところしか見ていなければ変装は見抜けない。そもそも相手が変装している可能性にまで思いが至らない。仮面の背後に隠れた部分、見えない部分にまで観察力と想像力を働かせる時に、はじめて変装を見抜くことができる。
「不可視性」への鋭敏な認識と知覚なくして本質に近づくことはできない。
ただでさえ人は意外にも周囲の日常を見ているようで見ていない。ホームズはワトソンに、君は毎日上り下りする階段の段数をきちんと数えているか、知っているかと質問する場面がある。もちろんワトソンは答えられない。日常のことだから知っているというのは間違いなのである。
ドラッカーの観察眼はシャーロック・ホームズ的知性と呼ぶにふさわしいものであった。見ること、社会の変化をつかみ、未来への有効な切り口を提示することが自らの第一の責務と考えていた。その彼の目に映じた時代を構成する「急所」がまさに組織にほかならなかった。
逆に言えば、組織をうまく扱いかねるならば、文明社会は深刻な危機に陥ることが彼の目には明らかに見えていた。ならば、組織を大切に、慎重に、適切に運用するのが第一の責務である。まさにその方法がマネジメントとして提示されたものだった。
戦後の社会は産業に携わる人が時代の主人公である。人が組織的に動くことで産業は機能する。かつてのコミュニティも社会の機能も、政治的権力も、中心は企業と産業に移行したのだと彼は知る。そして昔ながらの村落共同体とは明らかに成り立ちを異にする。そこに大戦以降の社会の急所があるのを彼は見て取った。
企業はあまりに巨大だった。いかなる企業を持つかが一国の戦争を勝利に導くかを決め、戦後社会の帰趨まで決定してしまう。にもかかわらず、企業の側はどうかというと自らが社会のリーダーであるなどこればかりも感じていない。そればかりか、確たる体系もなしに経験と勘で運営されているのが実態だった。
ならば組織を生産的に運用し、しかも人と社会の自律的秩序と創生に寄与しうる新しい体系的知識を持って戦後社会に貢献できるはずだと彼は考えた。時代の原理と直覚し、そこに自らを賭ける覚悟を持つに至る。
現実問題として、企業はただに生産をして利益を上げるだけではまったく足りない。のどかな村落が果たしていたコミュニティ、そして教会やお寺や学校が果たしていた市民性をも創造するだけの積極的な機能を企業は担っている。その証拠に、どのような組織に務め、どのような職務を遂行しているかがその人の市民としての様態そのものを決する。
一例が「名刺」である。名刺交換で人は自らのアイデンティティを明らかにし、相手を認識する。名刺は人が所属組織と根底において一元的である証明であって、同時に絆の象徴でもある。ならば人と社会の行方を決める組織をいかに扱うか。ドラッカーは自ら見出したマネジメントなる船で、新時代の知の冒険に漕ぎ出した。
七〇年も前のことである。
マネジメントの冒険
ドラッカーは一九〇九年一一月一九日、ウィーンに生まれた。解体前のオーストリア=ハンガリー帝国の首都である。
上層中産階級の生まれであって、その点が後のドラッカー思想の成り立ちを語るうえで無視しえぬ重要性を持つ。中産階級と言っても、今の中流とはまったく異なる。おそらく所得レベルでは社会全体の上層数%である。
江戸から明治にかけての日本も似たものだったと想像されるが、当時の中産階級とは指導者を再生産する機関であり、社会における秩序を積極的に創造する中心機能を担っていた。上層と下層をつなぎ、真の社会的リーダーを輩出する責任階層だった。
彼を上層中産階級と比定しうるのも、彼の父アドルフ・ドラッカーがウィーンの貿易省高官であったためである。もっぱら貿易・金融畑を歩み、当時のエリートとしては相当に名をなした人物の一人であった。
アドルフは政府高官、母のキャロラインは神経科医だった。父は一八七六年に生まれ一九六七年にカリフォルニアで亡くなっている。ウィーン大学卒業後、官職に就いた人で、貿易省次官などを歴任し、退官後、銀行の頭取やウィーン大学の教授を務めた。その後、一九三八年秋、ナチスの迫害から夫婦ともにアメリカに逃れ、渡米後ノースカロライナ大学に職を得て国際経済学を教えている。
六五歳になる一九四一年以降はワシントンDCのアメリカン大学で教鞭を執りながら、関税委員会に籍を置き政府関連の仕事もしていたらしい。
一方母は一八八五年に生まれて一九五四年に亡くなっている。ウィーン大学で医学を修め、チューリッヒの神経科クリニックで一年ほど助手を務めたとされる。専門は神経科だった。医師資格を持ちながらも、開業することはなかった。若い頃フロイドの受講生であったことが知られている。
ドラッカーの家系には医者や法律家のほか、音楽を中心とする芸術家が多かった。テクノロジストとアーティストの家系と言ってよい。そのような家庭環境はドラッカーの思想形成に深い影響を与えたものと推定される。彼は自伝的書物『傍観者の時代』で知的で華麗なる一族ぶりを次のように記す。
「私には、ウィーンやプラハの大学、スイスやドイツの大学、オックスフォード、ケンブリッジに、法律、経済、医学、化学、植物学、美術史、音楽の教授をしている叔父や従兄やその他の親類、さらには家族ぐるみの付き合いのある人たちがあまりに大勢いた」。
ドラッカー自身、マネジメントのトピックを説明するに当たってさえ、外科医や指揮者の例を好んで挙げる傾向があった。比喩は親しみある知的働きによる自然の湧出物である。
後々まで家庭環境が彼の思考の深い部分に力を持った証左とも言えるであろう。
たとえば、チーム組織を説明するに当たり、「生化学者、生理学者、小児科医、外科医のそれぞれが、それぞれの仕事を分担する。それぞれがそれぞれの能力においてのみ貢献できるだけだが、それぞれが仕事全体に対して責任をもつ」とする。
あるいは、マネジャーの役割を「指揮者は、作曲家がつくった楽譜を手にする。いわば翻訳家である。だが経営管理者は、指揮者であるとともに作曲家である」と寓喩的に表現する。上記はその一端に過ぎない(いずれも『現代の経営』)。
同時に、彼はマネジメントを経営に限定された特別な知的領域とは見なさなかった。むしろマネジメントとその他の知的領域に明瞭な区別を設けず、無限に広がる世界への視座に関するそれぞれの物語に過ぎないととらえていたふしがある。
そう考えると、彼の高度に理性的な分析能力と、芸術的な知覚能力の絶妙なバランスは、家系をめぐる人々、そして家庭環境の延長線上にあるものと見てよい。
ドラッカーというとアメリカのイメージが強い。しかし彼は生粋のヨーロッパ人である。家庭の事情もあって、彼は幼少期から青年期にかけてフロイド、マーラー、シュンペーター、ミーゼス、トーマス・マン、モルトケなど時代を代表する知性と直に接する機会に恵まれている。
地元の小学校から中高一貫のギムナジウムに入学し、基礎教育を終えてからは、単身ドイツに移る。彼は生まれ故郷のウィーンの回顧趣味が大嫌いで、早く地元を逃れて新しい世界に出立したいと望んでいた。
ハンブルグでの見習いを経てフランクフルトでジャーナリストをはじめる。複数の知的領域を同時並行で行う知的スタイルはすでに二十歳前後に確立されていた。ジャーナリストをしながらフランクフルト大学で博士号を取得している。複数の知軸を同時に回転させれば、一つがだめになってもすぐに別の行動に移れる。彼はそのような行動様式を生涯貫いた。後に自らが提唱する「知識労働者」そのものだった。
他方で二十歳を超えたあたりから次第に世の中がきな臭く、血なまぐさくなってくる。ナチスが生活のなかに入り込んでくる。彼にとってはとにかく下品なものが受け入れられない。ナチスは存在自体品性がない。どうあってもその体制で生きられそうもない。最初に書いた書物『経済人の終わり』がナチスの分析書の形態をとる時代観察だったのもそのためだった。彼は本書でナチスへの生理的嫌悪とともに、自由の窒息感を社会観察に惹き付けて巧みに表現している。一九三三年ナチスが政権を執り、全権委任法を成立させるまさに直前、彼はドイツを逃れイギリスにわたる。間一髪のタイミングだった。
イギリスでの数年の生活を経て、そこで妻となったドリスとともにニューヨークに向かうのだが、アメリカの地を踏んで彼はショックを受ける。陰惨なヨーロッパとはまったく違う世界がそこにあった。彼は生まれて初めて青い海を見た気持ちになった。アメリカは当時にして文明を先取りした国と彼は直観し、そこに次の文明を賭けうるだけの精神的遺産があると見た。
ヨーロッパでは王様や貴族、役人、軍人が中心の社会であって、空はいつも灰色だった。そんな人たちが威張っていた。そんな窒息感がナチスへの強力な吸引力を生んだ。しかしアメリカは違った。そんな連中が威張っていることもなかった。繁栄を極めるのは企業だった。そしてそこで働く普通の人たちだった。
現在でこそ、企業に社会的機能と政治的権力があるのは誰でも知っている。おそらくGoogleなどはそこらの政府や軍隊が束になってもかなわないほどの情報を所有している。つまるところ企業は単に私的な活動をしているのではない。完全に公共の中心になっている。当時にしてドラッカーはそのことを見抜いた。
そんな折、思ってもみない幸運が舞い込む。アメリカを代表する企業GM(ゼネラル・モーターズ)がドラッカーに内部調査を許諾するという申し出だった。彼はGM幹部から現場まで詳細に見聞を行い、一九四六年にこの大企業がいかなる原理で動いているのかを見極める書物を刊行する。『企業とは何か』がそれだった。最初のマネジメントの書物となった。
関心は経営そのものにはなかった。あくまでも社会の秩序と調和の源泉の探索が彼の主要な関心だった。そこに組織のマネジメントという尽きせぬ鉱脈を掘り当てた。次の彼の知的関心は政治的なものから、この鉱脈がどこにつながり、世界の成り立ちにどのような有益な知を提供してくれるのかに移行していくことになる。
マネジメントの冒険はここからはじまった。
「発明」されたマネジメント
マネジメントは「発明」されたものである。ドラッカー以前にマネジメントが行えるのは一部の天才のみだった。いまだ体系化されざる知識だった。体系化された知識の最大の特徴は何か。学ぶことができるということだ。ちょうど簿記や情報処理のように教え学ぶことができる。
マネジメントそのものはじつに多くの建物から成り立つ大構造物である。そこにはさまざまな出自を持つ知識が縦横無尽に織り込まれている。比較的科学的な組織に関する知見もあれば、証明不能な実際的手法も入っている。
とにかく現実の用に供することのできる知識は何でも貪欲に取り込まれているのがマネジメントの特徴である。同時にマネジメントはドラッカー亡き後さえも自律的に発展していく未完の可能性を秘めた知識体系でもある。
その少なからざる部分が組織というものの本質的な考察からなっている。それというのも、今私たちは組織というものをありふれたものと思っている。そうではない。人間が組織という道具をきちんと活用するようになったのはここ百数十年にすぎない。
ドラッカーという人はF・W・テイラーという人を高く評価している。テイラーは科学的管理法を実践に供した最初の人として知られている。いわば大量生産方式の生みの親である。自動車産業がその典型だ。彼によって工業製品の生産性は数十倍にも伸張したとされる。テイラーは世界で最初に体系的知識を組織に適用した。
さらには、ドラッカーが徹底的に調べあげたGMなどでは強みのある事業部が自律的に自らの最適行動をとりつつ、全体としては一つの調和ある事業形態を実現する事業部制が知られるようになった。ちなみに日本の松下電器でも早くから事業部制に似た方法が実践されていたことは比較的知られている。日本の実業人・渋沢栄一なども、組織というものを活用して日本の産業基盤を意識的に築いた点がドラッカーの注意を引いた。
組織を使って何ができるかはいまだ未知数である。おそらくいっそう組織の使用法に習熟するにつれ、さらなる前進が可能になると思う。ドラッカーの妻ドリスによれば晩年のドラッカーはあらゆる組織体がきちんとマネジメントがなされるようになればこの地上から飢餓さえ一掃できると話していたという。
鍵となるのは、組織を運営するマネージャーである。『もしドラ』のみなみの役割だ。
組織を活用して成果をあげるという点では誰もがマネジメントの使い手でなければならない。次にドラッカーの執筆活動を年代順に見ていくことで、マネジメント成立までの流れを見てみたい。
さまざまな組織にまつわる見聞を経て、一九五四年に初の体系的なマネジメントの書物『現代の経営』が刊行される。本書の画期性は強調に値する。事業部制、バランススコアカード、目標管理など現代の経営学説に伴う必須要因の萌芽的なコンセプトがいずれもこの書物を嚆矢としていることからもその卓越した洞見のほどは窺われる。ここから世界的なマネジメント・ブームが巻き起こることになる。
日本でドラッカーの名が知られはじめるのもこのころである。
一九五九年には初来日が実現し、箱根でセミナーが開催され多くの経営者を集めたという。
キッコーマン名誉会長の茂木友三郎氏も、慶應義塾大学在学中の当時、本書の翻訳を手にしてアメリカ留学を決意した。アメリカは名実ともにマネジメント先進国であった。そこでマネジメントの要諦を学んだことが醤油をグローバル商品とする現在の発展の礎となったと語っている。本書が顧客創造の「教科書」だったわけだ。
当時にして本書の触発を受けて自らの事業を創造し、発展させた経営者は数知れない。ソニー、松下電器、オムロン、トヨタなどがその代表格である。ドラッカー本人も、晩年まで自分が日本の高度成長に果たした貢献をしばしば口にしたことからも、その時点でマネジメントと日本との関わりには切っても切れないものがあったのは明らかである。
むろんその後もドラッカーは探求の手を休めることはなかった。GMは彼の組織研究の最初の手本となった企業だが、そこからさらにGE、IBMなどの巨大企業に関わり、内実を丹念に観察することで、独自の体系的志向を展開していくこととなる。
六〇年代後半には『断絶の時代』などの時代診断の書で、知識社会の到来を世に告げるなど、企業組織を超えた文明の物見役を引き受け、七一年にはそれまでの知見をさらに体系的知見にまでまとめた『マネジメント』の刊行にいたっている。
この『マネジメント』は『現代の経営』の主題を忠実に引き継ぎながらも、大幅に加筆・改訂のなされたいわば集成的書物である。今ではむしろ『もしドラ』の主人公・川島みなみが野球部を甲子園に導くに当たって使用した教科書として知られるにいたっている。
みなみはまず野球部の事業の目的を探し求め、顧客の探索を経て、野球部をマネジメントすべく乗り出した。まさしく野球部に生命を与えるための「組織活動」だった。
本書の最初は「マネジメントとは事業に生命を与えるダイナミックな存在である」からスタートする。いかにすれば事業に生命を与えうるのか、そのための基本的な考え方と方法、いわば骨法ともいうべき、磨き抜かれた知見が示されている。
一九七〇年代前半、ドラッカーは私生活でもニューヨークの都会生活に区切りをつけ、温暖なカリフォルニアに移住している。穏やかな生活環境を獲得してさらにいっそう創作に励み、その二〇年ほどはマネジメントの応用編ともされるイノベーションやマーケティングなどの支流探索にも乗り出していく。
その後一九八五年には事業を刷新し高度化するための知見を体系化した『イノベーションと企業家精神』を刊行している。本書は数あるドラッカー著作のなかでもじつにファンが多い。折しも八〇年代のサッチャー改革のなかで、企業のみならず、あらゆる組織に深い刺激を与え続けている。研究者のなかには、「イノベーション」という概念自体がドラッカーによって「発明」されたのだとの見解をとる者もいる。一時代を画した書物としてさしつかえないであろう。
九〇年に入ると、NPO経営の基本書ともなる『非営利組織の経営』が刊行される。ドラッカー自身は若いころから教会をはじめ非営利活動に自ら携わってきたもう一つの顔を持つ。他方でそのころ、企業の敵対的買収など、資本主義の行き過ぎが世を損なう現象を見るに及び、企業のマネジメントのみでは人間の自由と尊厳が担保されえない時代の到来を予期した。
ドラッカーがマネジメントの探求をGMという巨大企業から着手し、企業経営のための組織手法として発展させてきたのは確かである。しかし、彼はマネジメントを企業特有の機能、あるいは専有物とする見方は早い段階で拒否し、むしろあらゆる目的の組織、あるいは個の人生や社会全般にまで応用可能な方法との確信があった。
『非営利組織の経営』はかかる信念の具現であって、地域活動や教会、病院、大学そしてひいては野球部にいたるまで、「使える」方法なのだという事実を世に知らしめたのだった。
現在にあっても、マネジメントを自分の領域に引き込み、成果に結び付ける事例は数多い。近年ではとくに医療分野、理学療法、福祉関係に人気が高いと聞く。