私たちは「自分が知っているもの」の客観性を過大評価する。「私が知っていることは他者も知っているはずだ」というのは私たちが陥りやすい推論上のピットフォールである。
話は逆なのだ。「私たちが知らないことは他者も知らない」。そういうことの方が多いのである。
私たちが興味をもって見つめるものは社会集団が変わるごとに変わるが、私たちが「それから必死で目をそらそうとしていること」は社会集団が変わってもあまり変わらない。人間の存在論的な本質にかかわることからだけ人間は組織的に目をそらすからだ。「生きることは身体に悪い」とか、「欲しいものは与えることによってしか手に入らない」とか「私と世界が対立するときは、世界の方に理がある」とか「私たちが自己実現できないのは『何か強大で邪悪なもの』が妨害しているからではなく、単に私たちが無力で無能だからである」とかいうことを私たちは知りたくない。だから、必死でそこから目をそらそうとする。
でも、そのことを知りたくないので必死で目をそらすということは、自分が何を知りたくないのかを知っているからできることである。知っているけれど、知っていることを知りたくないのである。
だから、人間が「何か」をうまく表象できない場合、その無能のあり方にしばしば普遍性がある。人間たちは実に多くの場合、「知っていること」「できること」においてではなく、「知らないこと」「できないこと」において深く結ばれているのである。
内田樹『もういちど村上春樹にご用心』文春文庫