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	<title>文明とマネジメント研究所 &#187; 社会生態学文明とマネジメント研究所</title>
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	<description>文明とマネジメント研究所公式ページです。</description>
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		<title>社会生態学者になってみる</title>
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		<pubDate>Sun, 13 Nov 2016 23:53:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井坂康志]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[社会生態学]]></category>

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		<description><![CDATA[社会生態学者になってみる（pdf）]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://drucker-bunmei.jp/wp-content/uploads/2016/11/3d6a15c5fde776db8ec23d53d518afab.pdf">社会生態学者になってみる（pdf）</a></p>
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		<title>【書評】小林秀雄『人生について』</title>
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		<pubDate>Mon, 07 Mar 2016 23:33:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井坂康志]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[社会生態学]]></category>

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		<description><![CDATA[【脳を刺激する名文を】 小林秀雄『人生について』中公文庫 大学時代だったか、小林秀雄は意識してわかりにくく文章を書く人だなどとしたり顔に言う先輩がいて、以来小林秀雄は難しいものだと決め込んでしまったのだが、しばらく前に何 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: 14pt;"><a href="http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B0%8F%E6%9E%97-%E7%A7%80%E9%9B%84/dp/4122005426"><img class="alignnone size-medium wp-image-1279" src="http://i0.wp.com/drucker-bunmei.jp/wp-content/uploads/2016/03/a0b2eda7c11f2d06c143cb13f40ffffd.jpg?resize=208%2C300" alt="小林" data-recalc-dims="1" /></a></span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">【脳を刺激する名文を】</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">小林秀雄『人生について』中公文庫</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">大学時代だったか、小林秀雄は意識してわかりにくく文章を書く人だなどとしたり顔に言う先輩がいて、以来小林秀雄は難しいものだと決め込んでしまったのだが、しばらく前に何かの折りに読んでみて、こんなに頭脳と心にしみ通るごとき言葉のつむぎ手がかつて存在したことに驚きを覚えた。</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">「言葉を手足のように使う」とはおそらくこのような人のことを言うのだろう。何と言うか、現実であれ観念であれ、目の前に浮かんでくる映像を見せられているような文章なのだ。現代においてこのような文章の書き手は見つかるまい。</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">この文庫本は偶然書店の一角に平積みしてあったのを見つけ、何編か読んだことのないものがあるのを確認してから手に入れたものである。「私の人生観」をはじめ、多くは講演やちょっとした雑文をもとに編まれたアンソロジーであるが、短いものも長いものも、清冽な水のようなきらきらと輝いていて、時にはこんな高純度の水を喉に送り込んでおくことにちょっとした満足を感じる。</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">わけても「私の人生観」はぎっしり組まれた版面で60ページにも及ぶ、恐ろしく長くて高密度の講演録であるが、是非一読をお勧めする。</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">広い意味では随筆や随想、あるいは哲学断章のような文章が集められているわけなのだが、小林は多くの場合、思ってもみない角度から思考の槍を射し込んでくるところがある。</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">ちょっと古い時代に書かれたものだし、なじみのない芸術家や思想家の引用もあるけれど、純度の高い水というのはどんな心の隙間にでも静かにしみこんでくるものである。</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">評者は常々、ビジネスの現場に携わる人ほどに、自分と向き合えるような上質な文章や音楽にふれておく意味を実感する。ビジネスに対話がないからではない。反対に対話がありすぎるからである。</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">日々生きているなかで、あまりに饒舌な対話状態がビジネス社会のなかでは通常のものとなっている。次から次へとなすべきことが自分を追いかけてきて、自分と対話するだけの時間も精神的余裕もとりにくい。</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">小林の文章はある意味、若い頃から老成していて、ときに婉曲や警句を用いるところが難しくとらえられるのだろうが、言葉の一つ一つはひどく率直であり、鉱物のようにフィジカルな感覚がある。</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">わけても、「人生について」などという書生じみたテーマを大上段から語る、あるいは語れる論者が今どれくらいいるのだろうか。</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">たとえば、人生観の「観」という部分だけで、仏教の歴史から、仏典における世界観、それから西洋思想との本質的相違点から、フランスの哲学者ベルグソンの斬新さまで次から次へと浩瀚な書物をひもとくからのように、まさに生きた知識の洪水を体験させてくれる人は、なかなか得がたいと思う。</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">しかも、一般に考えられているのと違って、小林はきわめて実践的な思考の持ち主であり、学者的な知性を嫌い抜いた人でもあった。おそらく数ページ読むだけで、行間から漂う独特のにおいに誰もが気づくだろう。</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">「ポケットに名文を」－－。お勧めしたい。</p>
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		<title>社会生態学者は回想する</title>
		<link>http://drucker-bunmei.jp/archives/1215</link>
		<comments>http://drucker-bunmei.jp/archives/1215#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 25 Nov 2015 23:05:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井坂康志]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[ドラッカー研究]]></category>
		<category><![CDATA[社会生態学]]></category>

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		<description><![CDATA[「パン屋のリアリティはパンの中に存在するのであって、小麦粉の中にあるわけではない」（村上春樹）。 &#160; ドラッカーの著作には、「回想」というストーリー手法で書かれたものがいくつかある。半自伝とされる『傍観者の時代 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: x-large;">「パン屋のリアリティはパンの中に存在するのであって、小麦粉の中にあるわけではない」（村上春樹）。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 18pt;">ドラッカーの著作には、「回想」というストーリー手法で書かれたものがいくつかある。半自伝とされる『傍観者の時代』や「ある社会生態学者の回想」、『マネジメント』の「ＩＢＭ物語」「Ｐ＆Ｇ物語」などさまざまである。なぜ彼は回想という手法で世界の見方を表現したのか。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">話し手と聞き手はそれぞれ生きてきた経路も考えた方も違う。彼がとった作法は、体験という泉から湧き出る水を直接すくいあげて、聞き手ののどに気持ちよく流し込むことである。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">ドラッカーが回想を採用した理由の一端がそこに見えてくる。回想とは個人的体験である。自分だけのストーリーである。ある種の体験は、時に一般論では持ちえないほどの説得力を持つ。科学的エビデンスさえものともしない感化力である。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">回想のかたちをとるストーリーは、リアリティがあればあるほどに、聞き手をもストーリーの登場人物の一部にできる。人はそのストーリーが魅力的であるほどに逃れられなくなる。すぐれたストーリーを聞いた時点で、聞き手はストーリーという船の一員になる。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">ドラッカーがあえて回想を使ったのは、読み手の認識上の限界を打破し、読み手の中に眠る力をさりげなく鼓舞するためだった。ドラッカーがストーリーの語り手であったことはあまり知られていない。しかし、事実である。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">彼は自らのストーリーにアクセスする方法を知っていた。日本画を見たり、文学作品や戯曲を鑑賞した。オペラなども観た。そうすることによって、自らの内に眠る物語にアプローチした。古い井戸に長いつるべを落とすみたいに。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">特に大切なのが日本画である。ドラッカーが生涯の出合いともいうべき日本画を最初に目にしたのは、ロンドンの金融街で働いていた二十代前半のころのことだった。そのころドラッカーは、ジャーナリストとして活躍していたドイツでの生活を断念し、ナチスの迫害を逃れロンドンにたどり着いた。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">当時のドラッカーの生活が心穏やかとはいいがたいものだったのは想像に難くない。野蛮で暴力的な帝国に姿を変えた故郷のことを思うたびに、心は激しく傷んだ。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">そんなある日、ドラッカーは仕事帰りに雨に降られ、通り脇に雨宿りする。バーリントン街というところだ。ちょうどそのとき、ヨーロッパ初の日本画展が開催されていた。偶然にせよ、ドラッカーは日本画を目にし、そこに自分自身の魂の居場所があることを知らされる。以来、ドラッカーは日本画の熱烈な学徒となり、大学で講義を持つばかりでなく、収集家としても名をなすにいたった。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">ドラッカーが日本画から学んだのは、美のみではなかった。ドラッカーはヨーロッパ的な思考と並行して、日本的思考を自らのうちに取り入れた。特に自らのコンディションを整え、沈思黙考した。自らの心と対話した。そこから回想のアプローチを自らのものとした。日本画を眺めることで、自らの知性と心を調整し、回復し、「正気を取り戻していた」。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">思いがけないかたちで出合った日本画ながら、ドラッカーは、沈黙の中で自分と向き合うこの時間を大切にしてきた。そして沈思黙考と自己内対話の習慣は亡くなるまで続いた。</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">時に、フィクションはつくりものだから触れるに値しないという人がいる。間違いである。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">フィクションとは、事実とは異なる形で現実の現実らしさを凝縮的に伝える。時にフィクションのほうがはるかに現実を表している。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">『傍観者の時代』はドラッカーのファンからもっとも支持される書物の一つである。自伝的タッチで描かれているのだが、その実、事実のみで構成されるわけではない。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">精神科医のヴィクトール・フランクルも自らの強制収容所体験を内省と黙考によってつづり、『夜と霧』として世に問うた。本書は純粋なドキュメントというよりも、彼が後になって思い出したことを中心に構成されている。回想によるリアリティが、今なおもっとも共感を呼ぶ本として世界中で読まれ続けている理由でもある。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">書かれたことは百パーセントの事実ではないかもしれない。しかし、そこには彼が感じとったストーリーの語る別種の強烈なリアリティがある。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">このような心的作用は、何かを伝えるときに心にとめておいてよい。科学的なものが説得力を保証するわけではない。むしろ純粋に個人的な体験が持つある種の説得性というものがある。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">過去のある時点、たとえば子どものころの出来事、最初に取引先に行った日のこと、あのころ飼っていた犬のこと、結婚式の朝、子どもが生まれたとき、ふとしたときに見上げた青空のこと……。なるべく過去のある時点に意識を絞り、いきいきと立体的に思い出してみる。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">しだいに、そのころのふとした感情や周囲の印象、そして意味がくっきりと思い出されるようになる。こんなささやかな黙考の習慣を通して、あなたの人生のかけがえのない時間は再び体験としてよみがえってくる。『傍観者の時代』や『夜と霧』はそんなかけがえの時間を描いている。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">経営学者の野中郁次郎氏は、ドラッカーを「沈思黙考する人」であったと述べる。正しい判断や選択を下すためには、頭脳と心が落ち着いていなければならない。落ち着くとは、言い換えれば、「あなた自身の居場所」を知っていることにほかならない。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">沈思黙考とは思い出すことである。過去と向き合うことである。過去と向き合うことができない人は、未来に向き合うこともでない。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">私たちはどんな過酷な状況であっても、頭脳と心は譲り渡してはならない。どんなときも、自分自身である努力を怠ってはならない。このことがドラッカーの言う切実な原則である。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">ドラッカーは彼以外の誰かになろうとはしなかった。そして人に対しても、自分以外の誰かになることを求めなかった。あなた自身であることは、あなた自身の歩みを受け入れるところからしかはじめられない。何よりも自分自身の来歴を受け入れることが、過去に支配されることなく、また安直な成功や夢に踊らされることなく、自分自身であり続ける勇気を持つことを可能にする。私たちはこのドラッカーの勇気からも学ぶ必要があると思う。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">誰にとっても自分を見失わずにいられる勇気ほど生きるうえで大切なものはない。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">というのは世の中というものは自由を志すほどにあなたに別の自分になるように勧告する。生きていれば、たいていは他者から干渉される。身近にいる大切な人からこそ干渉される。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">ドラッカーはしばしば世間の言説とは真逆のことを述べて不興を買ったこともあった。しかし、他者と違うというだけの理由で自説を曲げるようなことはいっさいしなかったし、迎合を嫌う人だった。人の軽薄な評言など気にもとめなかった。というか他者の評価に重きを置かなかった。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">それは彼が自分が何をすべきかを知っていたためだ。何をすべきかを知ることほど人に勇気を与えるものもないし、自分自身の身の置き場を教えてくれるものもない。正しい意味における自己肯定とはそのようなものだと思う。</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">　</span><br />
<span style="font-size: 18pt;">そこから紡ぎ出された真正の物語が人の心にまっすぐに届く。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>【書評】『一神教と国家――イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』</title>
		<link>http://drucker-bunmei.jp/archives/1166</link>
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		<pubDate>Mon, 05 Oct 2015 22:38:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井坂康志]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[内田樹]]></category>
		<category><![CDATA[社会生態学]]></category>

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		<description><![CDATA[【私たちが知らないもう一つの世界】 内田樹・中田考『一神教と国家――イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』集英社新書   近年イスラム関連の諸国を遠因とする事件が国際ニュースのトップを飾ることが多い。 最近ではドイツに向かう [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%80%E7%A5%9E%E6%95%99%E3%81%A8%E5%9B%BD%E5%AE%B6-%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%80%81%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%80%81%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E6%95%99-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%86%85%E7%94%B0-%E6%A8%B9/dp/4087207250"><img class="alignnone size-full wp-image-1167" src="http://i1.wp.com/drucker-bunmei.jp/wp-content/uploads/2015/10/0d40a5e4a645fc6b96e767d64ac0878e.png?resize=174%2C293" alt="無題" data-recalc-dims="1" /></a></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">【私たちが知らないもう一つの世界】</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">内田樹・中田考『一神教と国家――イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』集英社新書</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;"> </span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">近年イスラム関連の諸国を遠因とする事件が国際ニュースのトップを飾ることが多い。</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">最近ではドイツに向かう難民問題がそうだった。</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">しかも、すでに国際ニュースと国内ニュースを分かつ決定的な柵というものがなくなっている。何が自国に関係し、何が関係が薄いかなど当座分かるものではない。ある国で発表されたささやかな経済指標が回り回って自分の生活に跳ね返るのが何ら不思議でなくなっている。</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">まして、日本のような貿易や人材を中心に成り立っている国は、地球のどこかで起こった些事に見える事件が大きな影響を持つ可能性が高い。逆もまた真なりである。</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">だが、日本においては、大きな事件が頻々と報じられているにもかかわらず、さしたる関心や情報収集が行われていないのが、イスラムである。グローバル化がさまざまなところでかまびすしく言われるわりに、イスラムを影響力ある変数としてとらえる機縁に比較的乏しいのはなぜだろうか。</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">イスラムはグローバル化の対象外なのだろうか。そんなはずがない。人口としても経済的にも文化的にもイスラムほどの伸長勢力は存在しない。にもかかわらず、理解しなければならない相手をなぜか無意識に異質なものとして思考から切り離しているにさえ見える。ＩＳが典型だ。</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">答えは簡単だ。本当は見たくないのだ。影響を知っているからこそ、理解したくないのだ。理解すると行動の責任が生ずる。</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">本書の興味深いのは、「なぜ私たちがイスラム関係にアンテナを立てずにいるのか」というメタ的心性からはじまって、イスラムをどことなく異質なものとしがちな歪んだマインドに快い一撃を食らわせてくれるところにある。</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">対談形式で進められるのが、本書の妙味を十分に引き出しているように思う。</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">切れ味鋭く、しかも奥行きある思考を持ち味とする内田樹氏、そして日本でも最高のイスラム学者の一人中田考氏の話が、おもしろくないはずがない。</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">読み進めているうちに、自分が置かれた環境の方がむしろ異質なのがわかってくる。良い本にはこのようなささやかな「コペルニクス的転回」を促すしかけがそっと埋め込まれているものである。</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">そもそもがイスラームとは何かにはじまって、シーア派とスンニ派の違い、ハラール、マッカ巡礼などの芳醇な文化的背景を踏まえたていねいな用語解説、さらに一神教と多神教などの宗教談義はスリリングな知的滑走を体験させてくれる。</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">「あれはこういう意味だったんだ」と過去に蓄積した知識や情報に新しい光が当たり、はっとさせられる。</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">現在グローバル化と呼ぶものの多くは、実に狭隘で、時にイデオロギッシュなものなのだということに気づかされる。</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">すくなくとも、イスラムについての理解と配慮なきグローバル思考は、世界の半分しかとらえられていない。</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">そんな当たり前の常識がたんたんと述べられているところに本書の魅力がある。そして真の専門家はどこまでもたんたんとしているものなのだ。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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		<title>ベゾスは2005年にすべてを語っていた</title>
		<link>http://drucker-bunmei.jp/archives/1110</link>
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		<pubDate>Sun, 23 Aug 2015 23:15:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井坂康志]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[マネジメント]]></category>
		<category><![CDATA[社会生態学]]></category>

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		<description><![CDATA[amazonの未来はすべてこのインタビューで語られている。 ベゾス・インタビュー]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>amazonの未来はすべてこのインタビューで語られている。</p>
<p><a href="http://drucker-bunmei.jp/wp-content/uploads/2015/08/amazon.pdf">ベゾス・インタビュー</a></p>
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		<title>【社会生態学者の本棚】駅伝・青学原監督の本</title>
		<link>http://drucker-bunmei.jp/archives/1094</link>
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		<pubDate>Wed, 12 Aug 2015 22:40:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井坂康志]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[社会生態学]]></category>

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		<description><![CDATA[【スポーツの普遍性】 &#160; 原晋『逆転のメソッド』祥伝社新書   時々思うのだが、スポーツがビジネスに似ているのではなく、ビジネスのほうがスポーツに似ているのではないか。 日本でも昨今そうなりつつあるけれども、ア [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: 16pt;">【スポーツの普遍性】</span></p>
<p><a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%80%86%E8%BB%A2%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%83%83%E3%83%89-%E7%A5%A5%E4%BC%9D%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%8E%9F%E6%99%8B-ebook/dp/B00WQWQDY2/ref=sr_1_1?s=digital-text&amp;ie=UTF8&amp;qid=1439419136&amp;sr=1-1"><img class="alignnone size-medium wp-image-1095" src="http://i1.wp.com/drucker-bunmei.jp/wp-content/uploads/2015/08/51qIN6nsifL__BO2204203200_PIsitb-sticker-v3-bigTopRight0-55_SX324_SY324_PIkin4BottomRight122_AA346_SH20_OU09_.jpg?resize=300%2C300" alt="51qIN6nsifL__BO2,204,203,200_PIsitb-sticker-v3-big,TopRight,0,-55_SX324_SY324_PIkin4,BottomRight,1,22_AA346_SH20_OU09_" data-recalc-dims="1" /></a></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 16pt;">原晋『逆転のメソッド』祥伝社新書</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;"> </span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">時々思うのだが、スポーツがビジネスに似ているのではなく、ビジネスのほうがスポーツに似ているのではないか。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">日本でも昨今そうなりつつあるけれども、アメリカにはスポーツ選手出身でビジネスで大成功している人が多くいると言う。たぶん、ビジネスの世界の成功ポイントはスポーツでも似ているのだろう。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">団体スポーツの場合、組織の力を最大化するところにそのことがいえるし、何より、すべてが人間的要因に貫かれているところがあるだろう。そう考えると、スポーツは、組織マネジメントの箱庭のような意味を持っているのだ。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">本書は青山学院大学の駅伝を箱根駅伝優勝に導いた監督によるものである。著者は選手時代を経てから、電力会社の社員となり、リスクをとって大学スポーツの監督になった。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">学生スポーツにおける指導者の持つ力量はそのままチームの強さに直結する。どんなに選手の力があっても、指導がまずければ強くはなれない。厳然たる事実である。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">「私の陸上競技での指導も、選手の首根っこをつかんで引きずりまわすようなスタイルではなく、その選手の課題に応じたキーとなる言葉を示して成長を促すというスタイルを取っている。したがって、コミュニケーション能力が高くないとおそらくついて来られないだろう」</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">「大事なのは、まず動くことだ。動いていれば、ノウハウは自ずと身についてくる。実際に営業をやってみてわかったのは、現場で交渉相手と膝を交え、面と向かって話し合うことの重要性だった」</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">筆者が指摘することは、いくつもの現実世界への示唆を含んでいる。それというのも、大学スポーツを社会から眺めていることがあるためだと思う。社会人出身の指導者の強みはそこにある。アウトサイドから見る能力である。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">さらにはどうスカウトするか、ミーティングをどうするか、ひいてはどのような生活態度を持つか。哲学の実践がかくも現実に力を持つのだという圧倒的な事実に打たれる。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">筆者は芯の強さとは、個々の選手の内面に潜んでいるのだと言う。内面にある覚悟をどう引き出すかは、著者自身の覚悟、すなわち、すべてを投げ捨てて指導者の世界に飛び込んだ次の発言に十全に表れているように思える。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">「私の側からの要望として次のようなことが記されていた。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">・三年間の出向および休職しての指導は、中国電力と青山学院大学との関係が今までないので無理である。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">・したがって、退職して就任するしか方法はない。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">・もし、三年間で結果を出した場合、三年後の身分の保障をしていただきたい。結果が出ない場合はその必要はない」</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">一つひとつは合理的でありながら、人間やコミュニティの機微にふれるものでもある。しかも、選手を見る目線なども、高度に総合的であって、「足がいくら速くても他人の話が聞けない人、とくに性根の曲がった人は遠慮してもらうしかない」といった深い人間理解を伴う言葉がいくつに散見される。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">スポーツの持つ普遍性を凝縮した一冊と言えるだろう。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>ドラッカーの話法③－－あるがままに見る</title>
		<link>http://drucker-bunmei.jp/archives/1078</link>
		<comments>http://drucker-bunmei.jp/archives/1078#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 06 Aug 2015 23:26:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井坂康志]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[ドラッカー研究]]></category>
		<category><![CDATA[社会生態学]]></category>

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		<description><![CDATA[&#160; ドラッカー話法の基本型は、「すべてをありのままに見る」ことに尽きる。ここでふと思われるかもしれない。 「ありのままで見る？　どう見ればいいのだろう」 そう、ありのままで見るというのは、決して簡単なことではな [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 16pt;">ドラッカー話法の基本型は、「すべてをありのままに見る」ことに尽きる。ここでふと思われるかもしれない。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">「ありのままで見る？　どう見ればいいのだろう」</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">そう、ありのままで見るというのは、決して簡単なことではない。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">「ありのままに見る」とは何か。「質的」に見る。そして、目的として見るということだ。言い換えれば、相手を量として、あるいは手段として見てはいけないということである。　</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">科学や論理の世界で問題となるのは量である。あるいは数字である。それで説明がすんでしまう。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">ところが、人間を取り巻く現実の世界――このような世界をドラッカーは知覚の世界と呼ぶ――たとえば、色や音などを本当に知りたいと思うならば、質の体験をしなければならない。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">そして、質として知覚するときには、相手が何かに仕える手段でなく、存在自体が目的なのだという前提で見なければ何も知ったことにはならないという。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">たとえば、ドラッカーが嫌ったナチスの考え方は、人を国家社会のための手段としてとらえていた。だからこそ、国家社会の進歩にとって敵と見なせば、もはや目的として見る必要がない。強制収容所で灰にしてしまってなんら問題ないのだというクリアな結論に一直線にいけた。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">ベートーベンの交響楽の豊かさを知るのは、繊細に耳を傾けることによってしかできない。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">音波の量だけでベートーベンの音楽の価値を測るのだと誰かが言ったら、誰もが愚かだと考えるに違いない。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">ドラッカーが愛した日本画の美しさも色の波長の違いだけでは測れない。ドラッカー話法にとって特別に大切なのは、生命に関するものは一つの例外もなく質で考えなければ意味がないということである。もちろん会社も経営も経済も同じである。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">すべて質的な存在ということだ。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">ドラッカーはすべてを質的に考えるという視点で首尾一貫している。質で考えるとは、言い換えれば分割すれば意味をなくしてしまうということでもある。石ころは分割しても石ころのままだが、赤ん坊は分割したらそもそも生命体でいられなくなる。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">私たちはうっかりするとそのことを忘れる。すべてを科学的に合理的に説明できる楽さにとらわれてしまう。そして、あろうことか、ロジカルな世界、量的把握の容易な世界のほうに、ビジネスや人生を近づけようとしてしまう。論理のほうに実生活を引っ張り込んでしまうのである。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">イデオロギーがまさにそれである。イデオロギーは頭の中だけでしか成立しない知的体系だ。そうすると、数字で説明可能なものだけを残して、ほかの世界は見えなくなってしまう。特に人間のもつ現実が見えなくなってしまう。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">頭の中で捏造された論理に現実の世界をゆだねてしまうと現実からどんどん離れていく。生きていない論理に合わせて人間社会が機能するほうがどうかしている。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">ドラッカーは、質的体験のなかで、マネジメントや社会、人間の問題を質や目的の問題としてとらえようとした。彼はすべてマネジメントは例外なく人間的問題に戻ると断言している。　</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">質的体験のなかで世界を見ないかぎり、本当の意味でのドラッカーの話法を紡ぎだすことはできない。彼はどこまでもこの世界の質的な意味を探りながら、マネジメントを打ち立てたからである。</span><br />
<span style="font-size: 16pt;">では、質として見るとはどのようなことなのか。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">一言で言えば、形態で見ることである。かたちに着目することである。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">ドラッカーが尊敬してやまなかったストーリーテラーの巨人ゲーテは形や色彩の研究者でもあった。形は質的体験を基本とするもので、芸術的なアプローチによって深められる。形こそが内面世界と質的体験を結び付けてくれる決め手なのだ。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">ゲーテは質的に体験していく考え方を対象的思考と呼んだ。対象的思考を一人ひとりが自分のものにしていくと、あらゆるものを質的に見ることができるようになる。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">そして、この対象的な思考をさらに深めていくと、今あるものの目に見えない可能性まで予感として感じ取ることができるようになる。ドラッカーはそれを「すでに起こった未来」と呼んだ。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">ドラッカーはゲーテに学び、対象的思考を訓練した。何によってか。芸術である。日本画や、文学によってだった。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">ドラッカーの書斎には、ビジネス書はまったくなかった。ほとんどが芸術書、歴史書、そして小説だった。ドラッカーがリベラル・アーツを重視した理由もここから理解できる。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">彼は若い学生に、マネジメントを身に付けたいなら、短い小説を書いてみるように指導していたことがある。芸術的感性はあらゆる対象的思考を育むうえでの格好の資源である。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">対象的思考の訓練はドラッカーに言葉を学ぶ人にとっても大切なことではないかと思う。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">芸術は目的の世界である。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">芸術は対象的思考の回路を提供してくれる。そのことを意識するのとしないのとでは長い時間が経つうちに大きな開きを生んでくる。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">質に着目するゲーテの対象的思考は、特に聞き手との関係で意味を持つ。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">第一が、聞き手を量ではなく質として考えるということである。手段ではなく目的として見ることである。私たちのなかの想像力を培う思考ともいえる。想像力を通して、一人ひとりを質的にとらえていくことが、人間としての理解につながっていく。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">同じことはあらゆる人間活動にも開かれている。顧客、取引先、社員、同僚……。ドラッカーはこのことを現代にふさわしいアプローチで徹底的に示してくれた。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">特に現代のビジネス社会の人間関係では、つい批判的に見がちになる。あたかも、お客が商品を値踏みするように、何か文句を言って当座の値段を下げさせることが短期的には得になる、そんな見方が幅を利かせている。時には批判的な意見を言う人のほうが知的に見られることさえある。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">しかし、批判は長期的には生産性を保証しない。信頼というかけがえのない資産を毀損するからだ。</span><br />
<span style="font-size: 16pt;">周囲を見回して、どれくらいの専門知識があるだろうかとか、このなかで自分より偉い人がどれくらいいるかとか、そのような見方をするととたんに空気は冷たいものとなり、信頼は氷のように溶けていく。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">そのようなものではなく、一人ひとりが芸術作品のように、私たちが美術館に行って作品を一枚一枚心を開いて見るように、かけがえのない作品のようにひたすら理解に努めるときにどのような人間関係でも芸術的な雰囲気が生じる。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">同時に、相手がどのような生き方をしているのかが見えてくると、それは一つの新しい世界を手にしたのと同じことになる。そのようなことをドラッカーはまさしくマネジメントの実践のなかで実現させようとした。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>「勇気を持ってサボる」（安冨歩）</title>
		<link>http://drucker-bunmei.jp/archives/1069</link>
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		<pubDate>Thu, 30 Jul 2015 22:24:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井坂康志]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[ポストモダン研究]]></category>
		<category><![CDATA[社会生態学]]></category>

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		<description><![CDATA[&#160; 私は大学を卒業して住友銀行（現三井住友銀行）に入りました。その少し前にプラザ合意があって、円高がはじまります。日銀が市場を大量に供給しましたので、余ったお金を土地融資・投資などに突っ込んでいくようになったの [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%BA%80%E6%B4%B2%E6%9A%B4%E8%B5%B0-%E9%9A%A0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%A7%8B%E9%80%A0-%E5%A4%A7%E8%B1%86%E3%83%BB%E6%BA%80%E9%89%84%E3%83%BB%E7%B7%8F%E5%8A%9B%E6%88%A6-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%89%E5%86%A8/dp/4046534354/ref=sr_1_2?s=books&amp;ie=UTF8&amp;qid=1438294960&amp;sr=1-2"><img class="alignnone size-medium wp-image-1070" src="http://i0.wp.com/drucker-bunmei.jp/wp-content/uploads/2015/07/ea6debdcb2ca005a3da836162644cf95.jpg?resize=188%2C300" alt="満州" data-recalc-dims="1" /></a></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>私は大学を卒業して住友銀行（現三井住友銀行）に入りました。その少し前にプラザ合意があって、円高がはじまります。日銀が市場を大量に供給しましたので、余ったお金を土地融資・投資などに突っ込んでいくようになったのです。まさにバブルが膨らんでいく時期でした。銀行という銀行が「金を貸せ」と銀行員を叱咤激励しました。</p>
<p>銀行の教科書には、土地が急激に値上がりする局面では担保価値を慎重に見積もれ、とあります。急に上がったものは急に下がりますから、リスクを回避しろというわけです。道理ですね。</p>
<p>ところがこのときの各銀行は地価の上昇速度を上廻る勢いで、評価額を上げていきました。元々は評価額が実勢よりかなり低かったのですが、それを、急上昇する実勢に近づけたのです。そうやって引き上げた評価額に従って、貸出を大胆に行ったのです。それでどうなったかというと、仕事量が増えるのです。真っ当な融資案件でしたら簡単な書類数枚書いて済むものが、怪しい案件にお金を貸すとなると山のような書類を書いて各部門から認めてもらう根回しや交渉が必要になります。かくして貸出額以上に、仕事量が増えました。</p>
<p>過労で次々に人が死にました。でもそうやって猛烈に働いたおかげで、銀行の融資額はうなぎのぼりです。</p>
<p>そのころ、三和銀行（現三菱東京UFJ銀行）に立派な支店長がおられました。上からのプレッシャーにノルマ、どんどん不動産融資をしろという命令が来ているときに、行員たちに「普段通りやりなさい」とおっしゃったのです。</p>
<p>ほかの支店がみんな徹夜で仕事をしているのに、その支店だけは五時帰り。当然数字は上がりませんから上層部はおもしろくない。彼は二年ほどで出向させられました。左遷です。</p>
<p>やがてバブルが崩壊しました。</p>
<p>バブル全盛期の二年半、多くの銀行員が文字どおり死ぬほど働いて「がんばった」支店ほど焦げ付き、膨大な赤字を出しました。逆にこの支店は焦げ付きがほとんどなく、通常の黒字成績を出したのです。</p>
<p>つまり、サボればサボるほど、損害は少なくなったのです。</p>
<p>本来はこのとき、この本質を見失わなかった支店長さんに戻ってきてもらって、頭取にでもすべきでした。しかしそのまま、膨大な赤字を出した経営陣が居座りました。</p>
<p>私は銀行員二年目に、この狂躁曲に疲れて一年上の先輩に問いました。</p>
<p>「こんなメチャクチャなことやってて、どうなっちゃうんでしょうね」</p>
<p>「そりゃ住宅ローンの保証会社なんかが全部潰れるだろ」</p>
<p>と彼は予言しました。一人一人はきちんとわかっていたのです。</p>
<p>でも暴走しました。暴走の後始末もしませんでした。</p>
<p>満洲事変から太平洋戦争への流れと同じです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この例のように、「何か変だな？」ということが起き始めたとき、立場主義的な「しかし立場上しょうがない」モードでがんばると、例の悪循環、ポジティブ・フィードバック・ループを廻すことに加担してしまうのです。</p>
<p>だから「変だな」と感じたら、「そんなはずはない」と歯を食いしばってはいけないのです。その状態が続くなら、</p>
<p>「変だな」→「苦しいな」→「しんどいな」→寝こむ→病気になる→倒れる</p>
<p>というのが、むしろ正しい態度なのです。もちろん、寝こんだり病気になるよりは、</p>
<p>「勇気をもってサボる」</p>
<p>このほうがずっと立派です。皆がそうやってサボったり倒れたりすると、システムは動かなくなります。そして暴走は止まるのです。</p>
<p>バブル時代に一生懸命働いて一〇億円貸した銀行員は、銀行に一〇億円の損害を与えました。しかし、もしその銀行員が、倒れたりサボったりしていれば、銀行は一〇億円助かったのです。そうであれば銀行は、一生懸命働いた銀行員を左遷し、サボった銀行員にボーナスを出して昇進させるのが合理的というものです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>じゃあその「変だな」をどうやって決めればいいのか。</p>
<p>これはもう、それぞれの人がどう感じるかにかかっています。そして感じたことをどう表現するか。ここに暴走を止める重要な鍵があります。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>【社会生態学者の本棚】小澤征爾・村上春樹対談</title>
		<link>http://drucker-bunmei.jp/archives/1060</link>
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		<pubDate>Mon, 27 Jul 2015 22:26:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井坂康志]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[ポストモダン研究]]></category>
		<category><![CDATA[村上春樹]]></category>
		<category><![CDATA[社会生態学]]></category>

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		<description><![CDATA[&#160; 【協奏の世界】 小澤征爾・村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について話をする』新潮文庫 時にスポーツ選手がビジネスマンの参考にされるわりには、音楽家が参考にされる頻度が低い気がしてならない。だが、音楽もまた、組 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 16pt;"><strong>【協奏の世界】</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;"><a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%B0%8F%E6%BE%A4%E5%BE%81%E7%88%BE%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%A8%E3%80%81%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E8%A9%B1%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B0%8F%E6%BE%A4-%E5%BE%81%E7%88%BE/dp/4101001669/ref=sr_1_1?s=books&amp;ie=UTF8&amp;qid=1427928212&amp;sr=1-1&amp;keywords=%E5%B0%8F%E6%BE%A4%E5%BE%81%E7%88%BE%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%A8%E3%80%81%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E8%A9%B1%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B+%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB"><img class="alignnone size-medium wp-image-252" src="http://i2.wp.com/drucker-bunmei.jp/wp-content/uploads/2015/04/0d40a5e4a645fc6b96e767d64ac0878e2.png?resize=210%2C300" alt="無題" data-recalc-dims="1" /></a></span></p>
<p><span style="color: #ff0000; font-size: 16pt;">小澤征爾・村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について話をする』新潮文庫</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">時にスポーツ選手がビジネスマンの参考にされるわりには、音楽家が参考にされる頻度が低い気がしてならない。だが、音楽もまた、組織やマーケティング、イノベーションなどの多様なマネジメント的要因が詰まったスリリングな世界でもある。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">スポーツと大きく異なる点は、音楽の判断基準が質以外にない点である。審美眼の判定基準をはかるのに、ピカソを見に美術館に足を運んだ回数は多少の参考にはなっても決定要因にはならない。質的なものの尺度は驚きであり感動であって、どこまでいっても内心の心の働きだからだ。心の働きは残念ながら測定することができない。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">世界的指揮者の小澤征爾と村上春樹の対論である。二人の最高峰を占める芸術家が語る世界――。気づくと、本当に音楽が聞こえるようなフィジカルな手ざわりが感じとられる。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">冒頭のところで書かれている村上春樹による観察だ。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">「世の中には『素敵な音楽』と『それほど素敵じゃない音楽』という二種類の音楽しかないのであって、ジャズであろうがクラシック音楽であろうが、そこのところは原理的にはまったく同じことだ。『素敵な音楽』を聴くことによって与えられる純粋な喜びは、ジャンルを超えたところに存在している」。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">私は思うのだけれど、人間が主体となる活動において、右の考察はほぼ共通に当てはまるのではないだろうか。事業などでも同じであって、結局のところ作るのも配送するのも消費するのも人である。人とはどこまでいっても生身を伴う存在であるから、質的な評価尺度がいつもしっかりとアンカーを支えている。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">ならば、会社や組織においても、人を質的に見て行かなくてはならないのだろうと思う。小澤征爾が楽団員を一人一人のプロとして、全体の中でかけがえのない存在として見るように。あるいは村上春樹がシューベルトのピアノソナタニ長調に心から没頭して耳を傾けるように。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">芸術は定量化の世界でないとともに、競争の世界でもない。「協奏」の世界である。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">いい音をつくるためのバリエーションは、オーケストレーションのみならず、ソロや協奏曲まであまりに多種多様である。すべては人の芸術的感性を最大化するための方法であり、技法なのだ。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">時にビジネスの世界はあまりにメカニカルに人の能力を査定しようとするところがあり、成果もまたクリアカットに示せと迫る。だが、芸術に見るように、クリアに示せない部分、不完全さを残すところに、人間の能力の潜在性はある。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">自ら指揮を執るベートーヴェン『ピアノ協奏曲第三番』を聴きながら、小澤が言う。オーケストラがぐっと盛り上がり、ドライブがかかる部分である。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">「ここはもっとやるべきなんだ。もっとディレクションをはっきりするべきです。こうじゃなくて、たあ、たあ、たーーん（アクセントを強調する）、という具合に。もっと勇気を持ってやらなくちゃいけない。もちろん『勇気を持って』なんてことは楽譜に書いてないんだけど、それを読み取らなくちゃいけない」</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">たいていの大切なことは収支決算書には書いていない。それを勇気を持って読み取らなければならない。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>【ポストモダンの言葉】無能の普遍性</title>
		<link>http://drucker-bunmei.jp/archives/1055</link>
		<comments>http://drucker-bunmei.jp/archives/1055#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 26 Jul 2015 10:07:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井坂康志]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[ポストモダン研究]]></category>
		<category><![CDATA[内田樹]]></category>
		<category><![CDATA[社会生態学]]></category>

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		<description><![CDATA[&#160; 私たちは「自分が知っているもの」の客観性を過大評価する。「私が知っていることは他者も知っているはずだ」というのは私たちが陥りやすい推論上のピットフォールである。 話は逆なのだ。「私たちが知らないことは他者も [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 16pt;">私たちは「自分が知っているもの」の客観性を過大評価する。「私が知っていることは他者も知っているはずだ」というのは私たちが陥りやすい推論上のピットフォールである。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">話は逆なのだ。「私たちが知らないことは他者も知らない」</span><span style="font-size: 16pt;">。そういうことの方が多いのである。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">私たちが興味をもって見つめるものは社会集団が変わるごとに変わるが、私たちが「それから必死で目をそらそうとしていること」は社会集団が変わってもあまり変わらない。人間の存在論的な本質にかかわることからだけ人間は組織的に目をそらすからだ。「生きることは身体に悪い」とか、「欲しいものは与えることによってしか手に入らない」とか「私と世界が対立するときは、世界の方に理がある」とか「私たちが自己実現できないのは『何か強大で邪悪なもの』が妨害しているからではなく、単に私たちが無力で無能だからである」とかいうことを私たちは知りたくない。だから、必死でそこから目をそらそうとする。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">でも、そのことを知りたくないので必死で目をそらすということは、自分が何を知りたくないのかを知っているからできることである。知っているけれど、知っていることを知りたくないのである。</span></p>
<p><span style="font-size: 16pt;">だから、人間が「何か」をうまく表象できない場合、その無能のあり方にしばしば普遍性がある。人間たちは実に多くの場合、「知っていること」「できること」においてではなく、「知らないこと」「できないこと」において深く結ばれているのである。</span></p>
<p style="text-align: right;"><span style="font-size: 16pt;">内田樹『もういちど村上春樹にご用心』文春文庫</span></p>
<p>&nbsp;</p>
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